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光として輝く_ 「神は光であって」シリーズ9
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光である神は、ご自身の子どもたちが明るい太陽のように真理の光で暗い世を明るく照らすことを望んでおられる。 ...
       
 
  
 

水と血を注ぎ出されたイエス様

万民ニュース   第 182 号
2810
2017. 12. 24


堂会長イ・ジェロク牧師


しかし、イエスのところに来ると、 イエスがすでに死んで おられるのを認めたので、 そのすねを折らなかった。 しかし、兵士のうちのひとりが イエスのわき腹を槍で突き刺した。 すると、ただちに血と水が出て来た。 (ヨハネ19:33〜34)



十字架のお苦しみの摂理を明らかに知れば、救い主を遣わしてくださった父なる神の愛とイエス様への愛が日ごとに加わる。それでは、イエス様が十字架刑にされた後に、すねは折られないで、槍でわき腹を突き刺され、血と水をすべて注ぎ出された理由は何だろうか。


1. ローマの兵士が十字架につけられたイエス様のすねを折らなかった理由

イエス様は十字架につけられて、ひどい苦しみを受けておられたが、ついに死なれた。その日は金曜日だったし、その翌日はユダヤ人が聖なる日として守る安息日だったので、死体を木にかけておくことができなかった。それで、ユダヤ人は総督ピラトに十字架刑にした人たちのすねを折って、死体を取りのけるように願った(ヨハネ19:31)。

ローマの兵士たちはイエス様の十字架の左右につけられた強盗のすねを折って、死体を片づけた。十字架につけられた人のすねを折れば、それ以上脚で体を支えることができないので、早く息が絶えるからである。また、その当時、十字架刑にした人々は呪われた人々だったので、すねを折った。ところが、イエス様はすでに死んでおられるのが確認されたので、すねを折らなかったのだ。

ここには明らかな神の摂理がある。<詩篇34:19〜20>に「正しい者の悩みは多い。しかし、【主】はそのすべてから彼を救い出される。主は、彼の骨をことごとく守り、その一つさえ、砕かれることはない。」とあるとおり、イエス様はすべての人類の罪を負って木にかけられて死なれたが、責められるところのない正しい者であるから、神がイエス様のすねが折られないように守られたのだ。

また、<出エジプト12:46>や<民数記9:12>にも、出エジプト当時の民に、羊を食べてもその骨を折ってはならない、と命じておられる。ここで神に過ぎ越しのいけにえとしてささげた「羊」とは、イエス様を象徴している(ヨハネ1:29)。したがって、過ぎ越しのいけにえの羊の骨は折ってはならないと命じられたのであり、このような預言のことばのとおり、イエス様のすねは折られなかったのだ。


2. イエス様がわき腹を槍で突き刺されて、水と血を注ぎ出された摂理/strong>

<ヨハネ19:34>後半節に「イエスのわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来た。」とあるとおり、ローマの兵士たちはすでに息が絶えているイエス様のわき腹を槍で突き刺した。

その当時、イエス様は頭にいばらの冠をかぶってむちで打たれ、手と足に釘を打たれたことで流された血によって凄惨なお姿だったし、すでに呼吸が絶えている状態だった。それでもローマの兵士が槍でイエス様のわき腹を突き刺したということは、人間にどれほど悪があるのかを現わしているのだ。

それなら、イエス様がわき腹を槍で突き刺されて、血と水を注ぎ出されたことの霊的な意味は何だろうか。

1) イエス様が人となって来られた証拠である

<ヨハネ1:14>を読めば、イエス様がどんな方なのかを知ることができる。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」すなわち、霊である神が人としての性質を持って現れ、この地上に来られた方だということである。イエス様は親の精子と卵子によってではなく、聖霊によって胎に宿られた。しかし、人間と同じようにお生まれになって、同じ成長過程を経られたので、救い主としてふさわしい資格を備えるようになったのだ。「人類の救い主になれる四つの条件」は、まず人でなければならない、不従順の罪を犯したアダムの子孫ではなく、敵である悪魔に勝つ力があって、命まで与えられる愛がなければならないことだ。

したがって、イエス様は私たちのようにむちで打たれれば痛みを感じ、疲れと渇き、空腹も感じられた(マタイ4:2;ヨハネ4:6)。このようにイエス様が人となってこの地上に来られた方であることを確かなものとするために、ローマの兵士がイエス様のわき腹を槍で突き刺すと血と水が出て来たと記してあるのだ。

2) 肉を持っている人も神のご性質にあずかれるという証拠である

<マタイ5:48>に「だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」とあり、<第一ペテロ1:16>にも「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない」とある。また<ピリピ2:5>には「あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。」とあり、<第二ペテロ1:4>には「その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。」とある。

イエス様は人となって来られたが、どんな罪も犯さなかったし、聖なる生き方をなさった。人と同じようになられたので人のような感情を感じたが、真理だけで生きておられた。すなわち、私たちもイエス様のように聖で完全であり、キリスト・イエスの心構えでいて、神のご性質にあずかることができるということである。

誰でも主を信じて火のように祈って努力すれば、神の恵みが臨んで強くされ、聖霊に助けられて罪と悪を脱ぎ捨てることができる。「イエス様は神の御子だから聖なる生き方がおできになったけれど、私は弱い人だからそうできません」と弁解できないということだ。

3) まことのいのちと永遠のいのちに導く力ある血と水だという証拠である

原罪も自分で犯した罪もないイエス様の血は聖く、責められるところのない尊い血である。このようなイエス様の尊い血によって、私たちがこれを信じることで罪が赦されて、永遠に生きられる。また、水は霊的に「みことば」を意味するので、神のことばを聞いてそのとおりに行っていくほど、罪の性質が脱ぎ捨てられて正しい人になるのだ。

それで、イエス様が注ぎ出された血と水は私たちを変えさせることができる力ある血と水であり、私たちを死から救ういのちの血と水である。したがって、イエス様が槍で突き刺されて、血と水を注ぎ出されたことは、私たちがイエス様のゆえに罪が赦され、みことばどおり生きられるよう強くされて、まことのいのちを得るようになったことを証ししている。


愛する聖徒の皆さん、
イエス様はご自身が苦しみにあわれることによって数えきれないほどの魂が救われることを思われたので、ただ喜びと感謝をもって苦しみの道を歩まれた。他の誰かのためではなく、皆さん自身を救うためにすべての苦しみにあって、水と血を注ぎ出されたのだ。

したがって、主の愛を深く悟って、すみやかに罪の性質を脱ぎ捨てて神のかたちを取り戻し、栄えある天国で永遠のいのちと祝福をいただくように、主の御名によって祈る。



 

 

 
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