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光として輝く_ 「神は光であって」シリーズ9
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いのちのみことば-霊の愛シリーズ - 愛は自分の利益を求めず

万民ニュース   第 126 号
4300
2013. 04. 28


「礼儀に反することを
せず、 自分の利益を
求めず、 怒らず、
人のした悪を思わず、」
(第一コリント13:5)



堂会長イ・ジェロク牧師



時代が流れるほど愛が冷たくなって、相手の利益を求めるよりは自分の利益を求めるのが見られます。個人の利益のために赤ちゃんが飲むミルクに有害な化学物質を添加するかと思えば、重大な先端技術を持ち出して国家的に莫大な損失を負わせるなど、破廉恥な行動をためらいなくする人々もいます。このように利己主義が広がった今日では、他のどの時より霊の愛が切実に必要とされています。


1. 霊の愛は相手の利益を求めること

私たちの日常をかいま見れば、自分の利益を求める人なのか、でなければ相手の利益をまず求める人なのかがわかります。たとえば、同僚と食事に行って、一つのメニューに決めなければならないとしましょう。この時、自分が食べたいものを強く主張する人がいるかと思えば、相手が食べたいものに合わせてあげるけれど、自分が好きなものでないのでうれしくない人もいます。反対に、自分が好きでないものでも、相手が申し訳ないと思わないようにおいしそうに食べる人もいます。
また別の例として、行事を準備するのに意見がまちまちだとしましょう。この時、自分の意見が通るまで説得する人がいるかと思えば、自分の意見を強く主張はしないが、相手の意見が自分と合わないから感心しないと思う人もいます。反対に、他人の意見に耳を傾けて、仮に自分の意見と違っても、喜んで従う人もいます。
このように、ひとりひとりの心にどれほど愛があるかによって、行動が違ってきます。もし意見の対立によって争いが起きて平和が壊れたとすれば、自分の立場にこだわって自分の利益を求めたのではないのか、顧みなければなりません。互いに譲って相手の立場を考えれば平和をつくれることも、自分の利益を求めるから平和が壊れるのです。愛すればすべてを相手に合わせようとするように、愛すれば自分の利益よりは相手の利益を求めます。
まるで親が自分より子どもがおいしいものを食べて、服も良いものを着てほしいと思うように、私たちがいつも相手の利益を求める人になったら、神様がどれほど喜ばれるでしょうか。


2. 相手の利益を求めたアブラハム

自分の利益を求めないで相手の利益を求めることは、惜しみなく自分を犠牲にできる愛の心から始まります。実際、自分の利益を求めなければ、当座は損をするように感じられます。しかし、信仰の目で見れば、そうではありません。みこころに従って相手の利益を求めるとき、神様が答えて祝福してくださるからです。
聖書に出てくる人物の中で、その代表としてアブラハムが挙げられます。創世記13章を読めば、アブラハムと彼のおいロトが出てきます。早く父と死別したロトは、アブラハムを父のように信じてついて行きました。ロトは神様に愛されているアブラハムのゆえ、一緒に祝福されるようになりました。その持ち物がどんなに多かったのか、銀と金とに非常に富んでいただけでなく、多くの家畜のために水をめぐってアブラハムとロトの牧者たちの間に争いが起きるほどでした。
アブラハムは再び発生することもある家族間の争いを防ぐために、住む場所を分けることにします。この時、アブラハムはロトに先に良い地を取るように選択権を与えます。<創世記13:9>で「全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」と言います。これにロトは、水が豊かで肥沃なヨルダンの低地を選んで離れます。
アブラハムの立場から見れば、ロトは自分のゆえに祝福されたのだし、秩序上自分がおじで目上の人だから、先に土地を選ぶことができます。もしアブラハムが形式的にロトに優先権を与えたとすれば、直ちに自分の利益を求めて離れるロトがけしからんと思うこともあったでしょう。しかし、アブラハムは心からおいがより良い地を選んでほしいと思ったので、ロトと平和を保つことができて、神様からさらに大きい祝福を受けました。
このように相手の利益を求めたアブラハムは、財産と権威がどれほど大したものだったのか、周りの国の王たちから尊重されて、彼の良い心のゆえに神の友とまで呼ばれました。このように、すべてのことに相手の利益を求める人は、自分が見て良いことでなく、相手の心を推し量って合わせてあげるのです。
愛する人のために自分のものを渡す喜びはどんな喜びより大きいです。憎んでいる人に与えるのは難しいけれど、愛する人に与えるのは少しも難しくありません。これは、愛する人に最も大切なものをプレゼントしたことのある人だけがわかります。与えても幸せです。ですから、すべてにおいて自分より神様と教会、自分より隣人と親、兄弟、夫、妻、子どもの利益を求める霊の愛を持って、主が下さる幸せを味わいますように。


3. 自分の利益を求めないためには

時々、教会生活にかたよって、家族や周りの人に被害を与える人がいます。断食しているから力がないといって職場の業務に差し支えがあるようにしたり、教会の働きに忠実だからといって、家族はいい加減にします。また、主婦が家事をおろそかにして教会の働きにだけ熱心であったり、生徒が学業は怠けて教会の集まりにだけ熱心なこともあります。
こんな場合、自分は遊んだり休んだりしなかったので、自分の利益を求めなかったと言うかもしれませんが、厳密に言えば、自分の利益を求めたのです。主のわざに忠実であっても、全家を通じて忠実であったのではありません。自分がすべきであって好きなことは熱心にしたけれど、当然すべき、もう一つのことはしなかったのです。
私たちがすべてにおいて自分の利益を求めないためには、いつも聖霊に助けていただかなければなりません。聖なる御霊は神様の心であり、私たちを真理に導き入れます。ですから、御霊の導きに従えば、何をするにも神様の栄光を現すために生きられます。
このように御霊により頼んで導かれるには、何よりも心から悪を捨てなければなりません。さらに心に霊の愛を耕せば、状況に従って善の知恵が臨み、神様のみこころをよくわきまえ知ることができます。たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるので、思う存分忠実に働けます。
ですから、神の子どもとして、クリスチャンでない隣人や家族にも愛されるには、自分の利益を求めないで相手の利益を求めなければなりません。私は新婚カップルが祝福の祈りを受けに来れば「互いに相手の利益を求めるうるわしい夫婦になるようにしてください」と祈ります。互いに自分の利益を求めれば、平和な家庭がつくれないからです。
愛する聖徒の皆さん、
愛する人のために自分のものを渡すこと、自分の利益より愛する人の利益をまず求めることは、どんな喜びよりも大きいと言いました。しかし、神様は私たちがこのような愛にとどまっていることを願われません。つまり、私たちが愛する人、私たちに役に立つような人だけでなく、自分をつらくして被害を与える人でも、その人の利益をまず求めるべきなのです。もし自分をつらくさせる人に出くわしたとき、避けたくていやな気がしたら、まだ自分の利益を求める心があることを悟らなければなりません。
どんな劣悪な環境と自分と全く違う人々にあっても、いつも相手の利益をまず求めて、自分を犠牲にできてこそ、霊の愛を心に耕せるのです。自分の思いと心に合わなくても、愛して犠牲になることでまことに相手の利益を求める御霊の人になりますように、主の御名によって祝福して祈ります。


 

 

 
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