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光として輝く_ 「神は光であって」シリーズ9
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光である神は、ご自身の子どもたちが明るい太陽のように真理の光で暗い世を明るく照らすことを望んでおられる。 ...
       
 
  
 

愛は不正を喜ばず

万民ニュース   第 129 号
4129
2013. 07. 28


「不正を喜ばずに真理を喜びます。」(第一コリント13:6)



堂会長イ・ジェロク牧師


神様が望んでおられる愛は、相手の利益を求めて、喜びと希望、いのちを与えるだけでなく、永遠に変わることのない霊の愛です。反対に、肉の愛は自分の利益を求めて、簡単に変わります。「愛の章」と呼ばれる第一コリント13章を読めば、霊の愛はどんな属性を持っているのかよくわかります。
前号までは、霊の愛の15の属性のうち、寛容であること、親切であること、人をねたまないこと、自慢しないこと、高慢にならないこと、礼儀に反することをしないこと、自分の利益を求めないこと、怒らないこと、人のした悪を思わないことについて調べてみました。
この号では、その次の属性「不正を喜ばず」について調べます。不正とは、行いとして現れる「正しくないこと。正当でないこと。」を言いますが、不正を喜ばなくてはじめて霊の愛を心に耕せます。
はたして「不正を喜ばず」という意味は何で、不正を喜ばない霊の愛を心に耕すためには、どうすべきでしょうか?


1. 不正を喜ばずとは?

先進国であるほど正直な人が成功する確率が高いです。反対に、後進国であるほど不正、腐敗と不義が蔓延しています。お金で解決されないことはほとんどないからです。不正は国家全体の興亡盛衰とも密接な関連があります。
ひとりひとりの人生にも、不正は莫大な影響を及ぼします。自分だけ良い暮らしをすればいいという利己的な心には、まことの満足がなくて、誰かを愛することもできません。それで、神様は、不正を喜ばずに真理を喜ぶことがまことの愛だと教えてくださるのです。
「不正を喜ばず」は、九番目の属性「人のした悪を思わず」と似ていますが、違いがあります。「人のした悪を思わず」という意味が、心に悪はどんな悪もいだかないことならば、「不正を喜ばず」とは、行いとして現れる良くないことを喜ばず、加わらないことです。
簡単に言うと、自分を傷つけたことのある裕福な友だちを見れば、ねたみ、そねみが芽生えます。わけもなくその友だちが威張っているようで、気に入りません。「あの子は豊かに暮らしてるのに、私は何なの?」「あの人が困ったらいいのに」という思いまでふとよぎります。これが悪をいだくことです。
ところで、うまくいっていた友だちが詐欺にあい、一朝にして会社が不渡りを出してしまいました。一瞬「いい暮らしをしていると威張っていたのに、いい気味だ」とうれしくなったら、これは不正を喜ぶことです。さらに悪い行いに同調して加わったとすれば、積極的に不正を喜んだことなのです。


2.霊の愛を心に耕すためには

1) 法を犯したり人に被害を与えることがあってはなりません
誰が見ても明らかに間違っていると感じる不正は行ってはなりません。たとえば、正直に汗を流さないで、人を欺いて正しくない方法で富を蓄積したり、法と手続きを犯しながらも自分の利益を積んでいくことは不正です。判事がわいろをもらって不当な判決を下して、罪のない人が不当な処罰をされたとすれば、これもまた不正です。
また、量をごまかして売ったり、安くて質の悪い原料を使って不当な利益を得て、他の人がどうなろうが関係なく自分の利益だけ手に入れることも同じです。この他にも、不正な金品を得ようと、人を欺いて嘘をつく人がどんなに多いでしょうか。
もし皆さんが高い公職についていて、親しい友だちが不当な方法で多額のお金を儲けていることがわかったとしましょう。摘発されれば重い処罰を受けるようなことです。この時、友だちが大金を渡して、しばらくの間だけ目をつぶってくれと頼みます。うまくいけば、今後もっとお礼をすると言います。この時、すぐに大金が必要な大変な状況でも、神様を愛するなら、決して不正を行わず、正しい道に従って行わなければなりません。
<第二歴代誌19:7>に「今、【主】への恐れがあなたがたにあるように。忠実に行いなさい。私たちの神、【主】には、不正も、えこひいきも、わいろを取ることもないからです。」とあります。神様は正しいお方であり、不正が全くおありになりません。したがって、人の目はごまかせるかもしれなくても、神様は欺けないので、正直で誠実に生きなければならないのです。
聖書を読めば、アブラハムはソドムに住んでいたおいが戦争に巻き込まれて捕虜になったとき、おいだけでなく、ソドムの人々と彼らの財産まで取り戻してあげました。ソドムの王はありがたく思って、取り戻した財産をアブラハムに与えようとしましたが、アブラハムは固く断ります(創世記14:22-23)。また、妻のサラが死んだ時も、土地の持ち主が埋葬地をただであげると言っても、あえて正当な代価を支払います(創世記23章)。これは彼が正直で、不労所得や不正の金品をただで得ようとする心が全くなかったからです。
神様を愛して、その方から愛される人は、決して他人に害を及ぼしたり、法を犯してまで自分の利益を求めたりしません。正当な代価以外には願いません。したがって、不正を喜ぶ人は、それだけ神様と隣人への愛がないのです。

2) 神様のみことばに外れることがあってはなりません
法を犯したり人に被害を与えることだけでなく、神様のみことばに外れるあらゆる罪がすべて不正です。不正は心の悪が具体的なかたちとして現れた罪であり、罪の中でも特に肉の行いに当たります。つまり、心にある憎しみ、ねたみ、そねみのような悪が、争い、暴行、詐欺、殺人などの行いとして出てくるのです。
<第一コリント6:9-10>に「あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。」とあります。したがって、不正を行う人は救われることも難しいということを悟って、徹底的に悔い改めなければなりません。
聖書で、不正を愛して滅びに向かった人の中にアカンがいます。彼は出エジプト第二世代で、小さい頃から神様が自分の民族に行われたことを見て育ちました。昼は雲の柱で、夜は火の柱で導かれ、ヨルダン川の水がつっ立って、堅いエリコの町の城壁があっという間にくずれ落ちるのも見ました。当時、イスラエルの指導者だったヨシュアがエリコの物には一切手を出すなと言ったのも、神様にささげる物だからであることを、アカンはよく知っていました。
ところが、エリコから出た物を見た瞬間、思わず欲に目がくらんでしまいました。美しい外套と、輝く金と銀を見て、神様のみことばもヨシュアの指示も忘れて、ひそかに隠しておきました。結局、アカンが罪を犯したので、イスラエルは次の戦いで敗れてしまいます。このことでアカンの不正が明らかにされ、彼と彼の全家族は石で打ち殺されます。
愛する聖徒の皆さん、何の罪もないイエス様が悪い私たちを救うために身代わりとなって、十字架につけられて死なれました(第一ペテロ3:18)。このような大いなる愛を悟ったら、決して不正を喜んではなりません。不正を喜ばない人は不正を行わないだけでなく、神様のみことばどおり生きていきます。するといつも栄える人生を味わえるのです。


 

 

 
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