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光として輝く_ 「神は光であって」シリーズ9
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愛はすべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し

万民ニュース   第 131 号
4329
2013. 09. 29


「愛は寛容であり、…… すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」(第一コリント13:4-7)



堂会長イ・ジェロク牧師





この世で愛という単語を嫌う人は誰もいないでしょう。いくら与えられた環境と条件が困難でも、愛があふれる毎日を送っている人は幸せを感じながら生きていきます。反対に、すべてが安定して物質的に豊かな生活を送っていても、霊の愛がなければ、まことの幸せを感じられません。愛は人にとってどうしてもなければならないものですが、永遠に変わらない霊の愛でなければなりません。
第一コリント13章に記されている霊の愛の説明の中には「すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、」という項目があります。はたしてこれに含まれた霊的な意味は何であり、どうしたら霊の愛が持てるでしょうか?


1. 愛はすべてをがまんし

私たちがイエス・キリストを受け入れて、みことばどおり生きようと努力していると、がまんしなければならないことが非常に多いです。憤ってかんしゃくを起こしそうでもがまんして、相手のためなら自分の好きなとおりにしようとするのもがまんしなければなりません。そうしてこそすべてを受け入れるようになるので、霊の愛の15の属性を説明する時も、一番先に「寛容」があるのです。
ところで、「寛容」とは、相手を愛する時に伴うすべての試練と自分自身をまず受け入れてがまんすることと言いました。「すべてをがまんし」とは、ここからさらに霊の愛と反対になるすべてをがまんすることです。
つまり、霊の愛の基本になる「寛容」より広い意味なのです。「霊の愛と反対になるすべて」とは、真理に逆らうもの、肉、罪と悪のことです。例を挙げると、寛容でないこと、親切でなくて憤ること、高慢で礼儀に反すること、自分の利益を求めて怒ること、人のした悪を思って不正を喜ぶことなどです。
ところで、ここで「がまんする」とは、無理に抑えて耐えることではありません。愛と反対になる属性、すなわち、すべての真理に逆らうものを心から全くなくすことです。心の割礼をして肉をすべて脱ぎ捨てれば、霊の愛だけぎっしり満ちた御霊の人になります。
実際、心を御霊に属する心に変えれば「がまんする」という表現が必要ありません。神様をこの上なく愛するので、愛と反対になることが思い浮ばないし、当然行うこともないのです。また、心に悪がないので、相手の欠けているところや過ちが見えません。見えるとしても、何としてでも愛をもって理解して、おおってあげようとするので、必死にがまんすることがありません。
罪人を救うためにこの地上に来られたイエス様に、人々はどう対したでしょうか? ただ良いわざだけを行われたのに、あざけってさげすみ、十字架につけました。真理そのものであるイエス様は、こんな人の子らでも黙ってがまんしてくださいました。かえって「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34)と彼らのためにとりなしの祈りをささげられたのです。
このようにイエス様がすべてをがまんして愛してくださった結果、イエス様を救い主として受け入れる人は誰でも神の子どもとされる救いのみわざが起きました。死から解放されて、永遠のいのちに至るようになったのです。神様も、私たちを愛しておられるのでがまんにがまんをして、まことの子どもに変えられるのを待っておられるのです。


2. 愛はすべてを信じ

相手を心から愛すれば、すべてを信じてあげます。仮に欠けている姿が見えても、傷と思いません。これから変えられることを信じるので、かわいいなと思って見てあげるのです。信じるということは相手を愛する証拠です。
信じることは相手に対する愛の大きさを示す尺度と言えます。神様を完全に信じるということは、神様を完全に愛するということと同じです。アブラハムは神様を完全に信じたので、神の友、信仰の父と呼ばれるようになりました。どれほど神様に対する信仰が信実だったのか、いのちより大切なひとり子イサクを全焼のいけにえとしてささげなさいと言われたとき、直ちに聞き従いました。死んだ者もよみがえらせることもできる神様を完全に信じたからです。
このように愛はすべてを信じることです。神様を完全に愛すれば、神様のみことばを100パーセント信じます。すべてを信じるので、またすべてをがまんします。霊の愛と反対になるすべてをがまんするためには、必ず信仰がなければなりません。つまり、神様のすべてのみことばを信じる時でこそ、すべてを期待するようになって、熱心に心を割礼して、愛と反対になるものを捨てることができるのです。
神様は私たちをどのように愛されたでしょうか? 罪人だった私たちのためにひとり子を惜しみなく渡されることによって、救いの道を開いてくださいました。私たちがまず神様を愛して信じたのではないのです。神様がまず私たちを愛してくださって、それを信じることによって神様を愛するようになったのです(第一ヨハネ4:9-10)。初めはこのようなことを信じるので神様を愛しますが、霊の愛を心に耕せば、愛するので完全に信じる次元に至ります。
霊の愛を心に耕すことは、真理に逆らう心をすべて捨てた時にできます。霊の愛を完全に心に耕した人はすべての人を信じます。信じられるような人だからでなく、過ちが多くて欠けたところが多くても、信じて期待してあげます。自分に対しても同じです。自分の欠けている姿に失望してへたり込むのではなく、自分を見放さないで変えさせる神様の力を信じるのです。聖霊様はそんな私たちに「できるよ」と勇気を与えて、信じたとおりに成し遂げてくださいます。


3. 愛はすべてを期待し

人は相手の行動が気に入らなければ、自分が願うように変えようとします。もしささいなことでも受け入れられなくて争うなら、人を変えさせるなど話にもなりません。ですから、相手が変えられることを期待するより、自分がまず変えられるために努めて、何としてでも愛をもって期待して待たなければならないのです。
すべてを期待するということは、信じていることが実際に現れる時まで、望んで待つことを言います。神様を愛すれば、みことばを信じて、そのとおりになされることを期待するようになります。やがて美しい天国で神様ととこしえに愛を分かち合って生きるようになることを期待して、すべてをがまんして走って行きます。
ところが、すべてを信仰によって期待しない世の人々は、天国への希望がありません。将来の希望がないから、現実がすべてであるように生きていくのです。肉に属するものをもっと追い求めて、味わうために生きていくだけです。それでも満足がなく、未来に対する見通しのなさと不安の中に生きて、結局死を迎えるようになります。
しかし、神様を信じる人々はすべてを期待するので、世と聖別された狭い道を歩みます(マタイ7:13-14)。使徒パウロは「もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。」(第一コリント15:19)と言いました。肉的に見れば、クリスチャンは多くのことを自制して敬虔な生活を送らなければならないので、大変そうに見えます。ですから、神様を知らない人のほうからは狭い道なのです。
しかし、神様を信じる人のほうからは、この道が美しい天国で永遠に生きる道なので、つらくなくて幸せです。愛とは、このように信じているすべてのことが実際に現れる時まで、変らずに待って期待することなのです。
愛する聖徒の皆さん、神様は千年を一日のように、私たちが霊の愛を心に耕して、まことの子どもに変えられるのを待っておられます。ですから、どこの誰であっても信じて期待してあげ、すべてをがまんして多くの人を救いに導けますように、主の御名によって祈ります。


 

 

 
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